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【受難節の説教】  「十字架とペトロ  辻 幸宏牧師


  ゼカリヤ書13章7〜9節(新共同訳聖書)
13:7 剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ
   わたしの同僚であった男に立ち向かえと
   万軍の主は言われる。
   羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。
   わたしは、また手を返して小さいものを撃つ。
13:8 この地のどこでもこうなる、と主は言われる。
   三分の二は死に絶え、三分の一が残る。
13:9 この三分の一をわたしは火に入れ
   銀を精錬するように精錬し
   金を試すように試す。
   彼がわが名を呼べば、わたしは彼に答え
   「彼こそわたしの民」と言い
   彼は、「主こそわたしの神」と答えるであろう。


  マタイによる福音書26章31〜35節(新共同訳聖書)
26:31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。
    『わたしは羊飼いを打つ。
     すると、羊の群れは散ってしまう』
    と書いてあるからだ。
26:32 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
26:33 するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と
    言った。
26:34 イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを
    知らないと言うだろう。」
26:35 ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して
    申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。


 主イエスの十字架を覚える受難節に入りました。私たちは日常から、主イエス・キリストの十字架による罪の赦しと救いを信じて歩んでいますが、特にこの一週間は、主イエス・キリストがなぜ十字架に架けられ、自らの生命を献げられる必要があったのかを覚えつつ、歩んでいかなければなりません。
 さて、今年の受難節・復活節は、二回の説教において、主イエスの十字架をとりまく弟子たちの姿から、私たちの信仰を考えていきたいと思います。
 主イエスは、弟子たちと共に最後の晩餐に与りました。主イエスは、宣教活動を初めて以来、常にこの十字架を覚えつつ、目指して歩んできました。そしていよいよ最後の夕べを迎えたのです。一方弟子たちは、約3年の間、主イエスと共に歩んで来ていましたが、主イエスの歩まれる道を、本当の意味で理解出来ていませんでした。ですから、最後の晩餐を終えた弟子たちは、例年の過越祭において行うように、ハレルヤ讃美を行った上で、オリーブ山に向かいます(30)。
 ところが、主イエスは、逮捕と十字架が目の前に迫っているのであり、弟子たちに対して、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。」と語られます。これは十字架の意味を理解していなかった弟子たちに取りましては、当然のことです。弟子たちにとって、主イエスは、あくまでも先生であり、イスラエルを政治的にローマから解放して下さる救い主でした。そのため弟子たちは、主イエスが逮捕され、十字架に架けられる姿を、現実に見ることを、自らの予想だにしない光景であり、おびえ、逃げることとなるのです。
 一方この言葉は、キリストによる救いに与る私たちに向かって語れている言葉でもあります。主イエス・キリストの十字架が、私たちの目の前に差し出されているのです。これを受け取るかと、今の私たちに対しても、主イエスは語りかけているのです。主イエスの十字架を、何も理解していなかったペトロの如く、私たちがすんなり受け入れてしまうことは、本当の意味での十字架を知らないということです。十字架の上の主イエス・キリストの苦しみを、本当の意味で理解できていないのです。
 つまり、今、主イエス・キリストの十字架への道、つまり逮捕、裁判、十字架、死...、と見る時、そこに権力に対する恐怖、痛みに対する恐怖、死に対する恐怖があるでしょうが、それらの恐怖が、私たちに差し迫っているのです。主イエス・キリストの十字架こそ、主の御前に罪を犯した私たち自身の姿なのです。この十字架の歩みを、自分自身では担いきれない事実があり、その事実を受け入れることが、十字架につまずくことなのです。そして自分では担うことの出来ない十字架を、キリストが、代わりに背負って下さったことを受け入れなければなりません。従って、本来は、誰一人、十字架につまずくことなく、主イエス・キリストの十字架を信じることは、本来あり得ないのです。
 そして、主イエスは、続けてこの様に語られます。26:31 『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』 この言葉は、ゼカリヤ書13:7-9の預言の言葉です。つまり、主イエスの十字架において、私たちがつまずくことは、主が私たちにお与えになられる試練であり、真の主による救いを受け入れるためには避けて通ることの出来ないのです。試練を通して、にわかクリスチャンは散らされ、真の神の民のみが残されます。つまり、キリストが十字架の道を歩まれたように、どの様な試練や迫害が、今の私たちに突き出された時、「私は大丈夫だ、私は信仰を貫き通せる」ということは、傲慢です。自らの力で闘うどころか、立つことも出来ず、逃げてしまう弱さを持っている人間であることを知るべきです。自らの弱さ、そしてこの弱さを秘めているあなたを救って下さる主なる神様がここにおられます。このことを受け入れ、信じれば良いのです。
 ですから、本当の意味での十字架、つまりこうした試練が、私たち一人一人に与えられることにより、私たちは、真のキリスト者とされると同時に、私たち自身の信仰が、金が洗練され、輝きを増していくように、洗練されて行くのです。
 主イエスによって、十字架によってつまずくことを語られた弟子たちは、その後、どうであったでしょうか。三度主を否定すると名指しされたペトロは、主イエスの語られるとおり、恐怖心のあまり主イエスを三度否定し、主イエスが十字架に架けられている時にも、遠くに離れていました。他の弟子たちも同様です。
 しかし、ペトロは、自らの弱さを知り、自らの罪を知り、主の言葉を受け入れ、キリストが天に召された後、新約の教会の中心を担っていくものとされていきます。他の弟子たちも、迫害による殉教の死を遂げるまで、信仰を貫いていきます。
 信仰を貫くことは、自らの力で貫いていくことではありません。自らの弱さを受け入れた上で、自らの力ではなく、主の御力を信じ、主に全てを委ねて歩むことです。主は私たちの今の必要をご存じです。主を信じ、主に全てを委ねて、歩み続けましょう。

                                               (2005.3.20)


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