【礼拝説教】  「神に近づく」  辻 幸宏牧師



  ヤコブの手紙4章1〜10節 (新共同訳聖書)
  1 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。2 あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、3 願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。4 神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。5 それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、6 もっと豊かな恵みをくださる。」それで、こう書かれています。
 「神は、高慢な者を敵とし、
  謙遜な者には恵みをお与えになる。」
  7 だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。:8 神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。9 悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。10 主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。


 新しい年を迎え、すでに3週間が過ぎました。昨年暮れ、大垣伝道所にとって大きな試練が与えられました。しかし、主は私たちに耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう逃れる道をも備えていてくださいます(Tコリント10:13)。ですからこの機会に改めて、私たちが主によって求められている教会形成とはどの様なものであるのか、そして教会を形成する私たちとは、どの様な信仰生活が求められているのかを、今年一年を通じて、考えていきたいと願っているのです。

 2007年標語 「信仰の養いによる教会形成」
 聖句:ヤコブ4章10節「主の前にへりくだりなさい。そうすれば、
               主があなたがたを高めてくださいます。」

 主なる神さまが私たちを救って下さろうとしている時に、私たちがその救い主の御前にきちんと立ち、主の救いの御業に対して真剣に向き合っているかが問われているのです。しかし現実には、このことがなかなか出来ないのです。日々の生活に追われ、週日には神様の存在を忘れ、自分のことで精一杯になります。それは地上で生きている間、なおも生まれた時から持っている罪が残っているからです。地上に生きるクリスチャンは、罪赦された罪人です。だからこそ、常に私たちは主の御前に立ち続けなければならないのです。
 2節で「人を殺します」と語られ、唐突に思われるかも知れません。カルヴァンですら、「ねたむ」と読み替えているのです。しかし近年は、どの訳も原文通り「人を殺す」と訳しています。人を殺す・争うことは究極的ですが、ここに神様から離れた人間の持っている本質が現れているからです。神から離れ、さらに偶像(他の宗教)から離れた時、自己の欲望に人は包まれ、人を殺す所にまで突き進むのです(参照:創世記3〜4章)。私たちも直接的な行動に移さないにしても、他人の陰口を言っていないでしょうか。これも、直接行動は起こしていないものの、神様の御前には同じ罪を犯していることになるのです。
 ですから、近年、凶悪犯罪が増えていますが、主から離れ、偶像からも離れた人間の姿が映し出されているのです。全てを欲することにより、次第に人に対して時間・労苦・手をわずらわすことが惜しくなり、最終的に人を殺す行為となるのです。しかし多くの場合、実際の行動することは抑制するのです。罪に包まれている私たち人間にも、神の像が残っているからです。ここから神信仰・偶像信仰が生じてきます。ですから、ここで「人を殺します」と語るにより、神様を見失っている私たちの姿を聖書は警告しているのです。
 5〜6「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。」これは非常に注目すべき御言葉です。主なる神さまが私たちをどの様な目で見ているか、よく示されています。つまり私たちの本来ある姿は、罪の中にあるのですが、そのような私たちを、主なる神さまは御覧になられ、ただ見ているだけではなく、ねたんでおられるのです。心を痛められているのです。
 神様と教会の関係を、夫婦の関係として聖書は語ります。神が花婿であり、教会(旧約ではイスラエル)が花嫁です。夫婦の見解の中にある者たちが、妻が浮気をすれば、夫は妬み、最終的には別れるか殺すかになってしまいます。イスラエルは、神様によって愛され、救いに導かれながらも、浮気をし続け、偶像崇拝を行ってきたのです。そのことを旧約聖書は語っているのですが、同様に、主なる神さまは、私たちを愛しておられ、そして主に相対することなく、自分のことばかりを求め、不平不満を語り、人に対しても陰口をたたいたりしている私たちに対して、ねたみを持っておられるのです。
 ねたみのある状態では、真の夫婦生活を送ることが出来ないのです。ですから、主によって救いに導かれ、神による永遠の生命の祝福が与えられている私たちは、主のねたみを取り除き、神の救いに相応しい者になることが求められています。そのために神様は、私たちが神の民に相応しい者になるために、神の御言葉をお示し下さり、主が何を求め、何を禁じておられるかをお語り下さっています。だからこそ、週に一回、主の日の礼拝にのみ、神の言葉に聞き、後の6日間は、世にどっぷりと染まった生活ではそのようなことは出来ないのです。世に流されます。私たちは毎日、主の御前に立ち、主がお語り下さる御言葉に耳を傾けなければなりません。主に祈り求めなければなりません。そうすることにより、主なる神さまは妬みではなく愛を、恵みを、祝福を私たちにお与え下さいます。
 殺伐とした世の中になっています。だからこそ、私たちは常に主の御前に立ち、主が愛して下さり、救って下さっていることに感謝しつつ、主に従った歩みを行い、さらには、人々に対しても、主の愛を示していくことが出来るように求めていきたいものであります。

                                              (2007.1.21)
COPYRIGHT(C) 2007 日本キリスト改革派大垣教会  ALL RIGHTS RESERVED



戻る