【礼拝説教】  「義のための苦しみ」  辻 幸宏牧師



  Tペトロ3章13〜22節 (新共同訳聖書)


  13 もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。14 しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。15 心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。16 それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。17 神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。18 キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。19 そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。20 この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。21 この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。22 キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。


 今日2月11日は建国記念日として、神武天皇によって日本が建設された日を祝わいます。しかしキリスト教会では、戦中、天皇崇拝・神社参拝(偶像崇拝)を行い、主の御前に罪を犯したことを覚え、同じ過ちを繰り返さないために、2月11日を、信教の自由を守る日として覚えています。特に今年は、昨年末に教育基本法が改正されたことによる信仰の危機が迫っている時です。そうしたことを覚え御言葉から聞こうと願っています。
 聖書は「義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです」(14)と語ります。しかし「万一」(口語訳)、「たとい」(新改訳)が訳されていません。時代が変化しても、クリスチャンとして義しい生活、つまり主の御言葉に聞き従う生活を行っていれば、人々にも「義しい人」とされ、急に虐げられることはないでしょう。しかし万が一です。君が代が天皇を崇拝する歌だから讃美しない、日の丸に頭を垂れないことで虐げを受ける可能性があります。私たちクリスチャンはこの様な突然の迫害に対して、心の備えをしておく必要があります。
 私たちは「人々を恐れたり、心を乱したり」する必要はありません。確かに迫害は恐ろしいです。しかし私たちの目指しているゴールに目をしっかりと向けるべきです。神様を信じてクリスチャンになることは、主による罪の赦しと死からの復活・永遠の生命が与えられるのです。私たちの歩むべき道は正しいのです。この確信に満ちていなければ、「なぜ」、「今の状態を逃れるのにはどうしたらよい」と言うことが先に思い浮かび、自分を見失うのです。動揺して人々を恐れたり、心を乱すことは、自分が弱い立場にあり、苦しむ、つぶされることを恐れるからです。自分に欠けがある、自分の方が間違っていると思ってしまうのです。しかし、私たちが主による救いを信じ、主の御声に聞き従って歩んでいるならば、私たちには欠けたところはないのです。もちろん主の御前に立つ一人の人間として、罪を背負って生きています。しかし私たちは、すでにキリストによって罪が赦され、キリストの義を身にまとって生きているのです。卑下することはありません。
 だからこそ、万が一にもそのような事態に陥った時、まず「心の中でキリストを主とあがめなさい」と語るのです。自分を防御し、身をかがめてしまえば、私たちは目指すべき希望を見失います。キリストによって救われたクリスチャンは、永遠の生命の希望に満たされているのです。だからこそ、恐れることはなく、主によって救われているという希望を持ち、説明を要求する人には、弁明を行えば良いのです。
 また虐げられた時にも、敵意を持ってはなりません。敵意を持てば相手も構えるのです。相手を受け入れ、その上で正しい良心、つまり主によって教えられている真理を宣べ伝えれば良いのです。何を語るのか。それは、必要な言葉を聖霊を通して主がお教え下います。
 真理がどこにあるのかが理解出来る相手であれば、主の真理が示され、己の悪口、つまり誤りに気が付き、恥じ入るようになります。この時、私たちもまた主の御前に一人の罪人であることを忘れてはなりません。主が私を捉え、キリストの十字架の故に罪を赦し、救いに導いて下さったのです。目の前の虐げている相手も、何も知らずに罪の中にあるのです。この人もまた主によって捉えられ、真理が示されることにより、救いに導かれることを祈り求める時、敵対心を持って構えることなく、穏やかに接することが出来るのです。
 もちろん真理を受け入れない人たちが多いです。だからといって妥協するのですか? 私たちを救いに導き、永遠の生命をお与え下さる神様とは、どういった存在でしょうか?キリストは私たちに罪の赦しと救いをお与え下さるために、十字架で苦しまれたのです。茨の道を歩まれたのです。罪の誘惑に屈することなく、十字架の死と死からの復活を通して、勝利を治めて下さったのです。キリストの勝利によって、本来、罪の刑罰としての死をもって終わる私たちに対して、永遠の生命が与えられたのです。このキリストの勝利は、主なる神さまを信じ、主による救いを信じた者に与えられるのです。
 ペトロは、ノアの例を語っています。主が天地万物を創造し、アダムとエバを創造されてから10代目です。本来、神の子として創られた人間は、主から離れ、罪に罪を繰り返していたのです。主は忍耐しておられましたが、彼らを滅ぼすことを決意されたのです。その時、主はノアとノアの家族を召されます。ノアは、海も湖もない丘の上にあって、主の命令通り、箱舟を作り始めます。それを見て、人々はノアをあざ笑い、虐げます。人々は、主の語られる言葉に耳を貸さず、目の前の現実ばかりに目が行っていたのです。しかしノアは、雨の降らない丘の上にある現実のみを見るのではなく、主がお与え下さろうとしている救いに目を向け、今、何が求められているかを切に求めていたのです。
 主なる神さまは、この様に主の御声に聞き従い、主による救いを求めるノアと家族8人を救いに導いて下さり、主の御声に聞き従わない者に対する刑罰を実行されるのです。
 ノアとその家族は少数者でした。しかし主の御声に忠実に聞き従う者だったのです。主はこのノアと家族を、洪水という水の洗いによって、彼らを救いに導いて下さったのです。私たちはこの後、主の晩餐に与ろうとしています。私たちは、ここで授かるパンとぶどう酒により、キリストの十字架による罪の赦しを確認するのです。さらに主が天国において主の晩餐に私たちを招いて下さっている希望を忘れてはなりません。地上の歩みの中にあっては、キリスト者は少数者かもしれません。虐げの対象であるかもしれません。しかしキリストが十字架の苦しみの道を歩まれたように、私たちも自分の十字架を担い、苦しみから逃れようとするのではなく、主の御言葉に聞き従い、義しくあり続けることにより、主は、私たちに御国の祝福に満たして下さるのです。

                                              (2007.2.11)
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