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「私たちの生きる目的」 辻 幸宏牧師


  1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。

  3 「心の貧しい人々は、幸いである、
     天の国はその人たちのものである。
  4 悲しむ人々は、幸いである、
     その人たちは慰められる。
  5 柔和な人々は、幸いである、
     その人たちは地を受け継ぐ。
  6 義に飢え渇く人々は、幸いである、
     その人たちは満たされる。
  7 憐れみ深い人々は、幸いである、
     その人たちは憐れみを受ける。
  8 心の清い人々は、幸いである、
     その人たちは神を見る。
  9 平和を実現する人々は、幸いである、
     その人たちは神の子と呼ばれる。
  10 義のために迫害される人々は、幸いである、
     天の国はその人たちのものである。
  11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

  13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」



T.現代社会とクリスチャン
 今日の日本社会は、「景気が良くなっている」と言われていますが、一方、年金を初め社会保障や将来的な不透明さも増しています。ここはキリスト教会ですので、政治的なことは話しませんが、参議院選挙においても、目先を誤魔化す者ではなく、私たちの将来を見渡し道を開くことが出来る人たちが選ばれていく必要があります。
 クリスチャンは、イエス・キリストこそが、真の神、真の救い主として信じています。そしてクリスチャンであるか否かにより、社会の見方は自ずと違ってくるのです。それはどうしてか? 非キリスト者であれば、「自分が何かをしなければらならない。社会を動かす政治が何かをしなければならない。」と考えることでしょう。つまり物事を判断する基準は、あくまで「自分」です。「自分」が中心として、物事を判断します。
 ところが神さまを信じることにより、ものの考え方自体が違ってくるのです。今回の特別伝道集会の案内で、私は、「行き先不透明な時代にあって、私たちはどこに向かっているのだろうか? 天地万物を創られ、すべてを統べ治めておられる唯一の神さまだから、知っておられます」と記しました。主なる神さまはおられます。主が天地万物を創られ、今なお全てを治めておられます。そして主が、今日も私たちに命を与え、全ての恵みに満たして下さっているのです。そして、主を信じる者に救いと天国における永遠の生命が約束されています。私たちが向かおうとしている方向に、主の恵みがあるのです。そのため、私たちは主なる神さまによって生かされており、全ての恵みも与えられているのです。そして「私たちが何をしなければならない」という「自分」を中心から、私たちを救いに導く主なる神さまが、私たちをどこに導き、また私たちに何を求めおられるのかを考えることとなるのです。つまり、私たちの目線で社会を見つめるのではなく、全てを統治しておられる神さまの目線で、物事を考えていくのです。つまり社会を見る目は、私たちの目線(水平的)の見方は無くなり、上から全体を見渡すことになります。そして自分を規準にするのではなく、神さまが語られる義を規準に総合的に判断するのです。

U.山上の垂訓
 ここで聖書を御覧下さい。今日は山上の垂訓(マタイ5〜7章)を取り上げました。
 文語訳聖書では「幸福なるかな」と語られている所ですが、「神さまに祝福されている、恵まれている」と言う意味です。つまりここで言う「幸い」は、あなた自身の成功・幸福ではありません。聖書が語る私たち人間の幸せとは、神さまによって愛され・救われ、神さまの祝福と恵みの内に生きる事です。そしてこの幸せは、私たちが地上に生きている間はもちろんのこと、私たちが地上での生涯を終えた後も続くのです。この言葉を語られているイエス・キリストは、十字架に架けられ、死を遂げられたのですが、三日目に復活され、そして天に昇られました。そして今なお天におられます。それと同じように、主なる神さま、神の御子イエス・キリストを信じる者は、神さまの祝福と恵みのうちに、死から復活の命が与えられ、天国における永遠の生命が約束されているのです。これこそが、救いの中心的な出来事であり、私たちに人間にとっても最も喜びに満ちている事です。
 @心の貧しい者・悲しむ者
 では神さまから祝福され、恵みに生かされるために、神さまは何を求めておられるのか?心の貧しい人でありなさい。神さまは私たちに心の豊かさを求めておられないのか? そうではありません。ここでの心の貧しさとは、神さまの御前に立つ私たち自身の姿です。主なる神さまこそが、真の愛があり、真の心の豊かさを持っておられるお方です。だからこそ神さまを信じる人、イエス・キリストの十字架による救いを信じる人に、主からの救いが約束されているのですが、この主なる神さまの御前に立つ時、自らの心が主に比べて貧しく、謙虚にさせられます。そうした人こそ、天の国に相応しいと、主はお語り下さいます。そして、心が豊かにさせられ、人の苦しみ・痛みも理解出来る者とされていきます。
 悲しむ者とは、自らの内にある罪の痛みを覚える者です。主なる神さまの御前に私たちが立つ時、十戒で語られたことを行い・言葉・心において、裁きを受けます。それが罪です。主の御前で、心の罪が問われた時、無実を主張することは出来ません。自らの弱さ、罪を知ることこそ、ここでいう悲しみです。
 柔和とは、神の御前に自分自身の姿が示された時に生じる謙虚さ、柔和な心です。
 そして、義に飢え渇くとは、主によって示される完全な義しさを追い求める者です。自らの罪を知り、罪を繰り返さず、少しでも主の義しさを求める生き方です。
 神さまはあなたに対して憐れみ深く、神さまを受け入れ信じる人は、皆、救われます。この神の救いに生きる者とされた時、傲慢になることなく、他人に対しても憐れみ深く生きることが出来る者とされるのです。
 心の清い者とは、二心がない人です。つまり、人によって語ることを変えたり、語っていることと行っていることと違う者ではなく、誰に対しても、言葉も行いも、主が示されている義しさを求めて行動する人のことです。
 次に平和を実現する人です。人は常に権力・富を追い求めます。すると、人を傷つけ、時に争い・戦争へと発展します。そうした人々との間に立って、平和を実現することを、神さまは求められます。そのために賢く、振る舞うことが求められます。忍耐も必要です。国や民族、宗教を超えた平和を求めるべきであり、憲法9条は堅持すべき立場にあります。
 最後に義のために迫害される人を取り上げます。この世において、社会・政治などは、取り繕うことが行われ、義しさを貫こうとすれば、叩かれることが多々あるでしょう。今の日本の政治・社会がそうであると思います。そうした時に、義しさを貫こうとすれば、どうしても摩擦が生じます。そして時として、死に至る迫害になることもあるのです。
 しかし、この様に主なる神さまを信じ、主なる神さまが求めておられる義しさを追い求めて生きる時、私たちは本当の意味での幸せ・喜びが与えられるのです。それは、全てを支配し、私たちを救いに導いて下さる主なる神さまによって救われ、祝福と恵みが与えられ、天国が約束されるからです。

V.地の塩、世の光としてのキリスト者
 つまり、私たちは、創造主であり、私たちを救いに導いて下さる主なる神さまを信じて、主なる神さまによって祝福と恵みに満たされて歩むこと、つまり天国に希望を持って生きることにこそ、真の喜びがあるのです。
 そして神さまを信じて、神さまの御言葉に聞き従って歩む時、それは義しさを貫く歩みであり、キリスト者としての信仰生活を貫く生活により、それは神さまを知らない人たちに対する見本となるのです。それが地の塩、世の光としての歩みです。
 正直な所、クリスチャンと言っても、なおも主の御前に罪人であり、弱さを持って生きています。しかし、主なる神さまによる救いの希望に生きる時、主が語られる御言葉に聞き従い、主が求めておられる義しさを貫こうとする時、自ずと、社会的影響力を持つ者とされていくのです。それが地の塩、世の光としての歩みとなるのです。


                                               (2007.7.8)
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