【クリスマスの説教】  「神を誉め称える」  辻 幸宏牧師



ルカによる福音書2章22〜37節

  2:22 さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。23 それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。24 また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。
  25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。26 そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。27 シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
  29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
    この僕を安らかに去らせてくださいます。
  30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
  31 これは万民のために整えてくださった救いで、
  32 異邦人を照らす啓示の光、
    あなたの民イスラエルの誉れです。」
33 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。35 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
  36 また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、37 夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、38 そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。

T.救い主と対面する人々
 先週、私たちはクリスマスをお祝いしました。しかしクリスマスは終わり、すぐに新年の準備に入って良いのでしょうか?教会暦では1月6日を顕現日として覚えます。東方の博士たちがキリストを礼拝した日とされています。さらにその後レントを迎えるまでの6週間は顕現節として覚えるのです。マリアとヨセフがエルサレムに行き、宮清めを行うのはさらに後の生後40日目であり(レビ12章)、その間、教会は御子の御降誕を覚えるのです。
 さて、幼子イエスが神殿において宮清めされるに際して、シメオンと女預言者アンナが登場します。博士たちは異邦人であり、羊飼いたちは罪人とされていた人々であり、約束の民イスラエルから離れていた人たちでした。そうした意味では、救いが全世界の人々に知らされたことを、博士と羊飼いに出会うことにより、聖書は語っていたのです。しかし聖書は併せてイスラエル人であるシメオンとアンナも記し、救い主の誕生が、決して旧約におけるイスラエルの選びと無関係に起こったことではないことを語ります。

U.救い主との出会い
 シメオン「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」と聖霊から告げられていました(26)。ザカリア、マリア、ヨセフもお告げを聞いたのですが、彼らは妊娠という形で、聖霊の約束を確認することが出来ました。しかしシメオンは異なります。彼はどれ程の年月、この日を待ち続けたことでしょうか。1月、1年、5年、10年..、聖書は語りません。
 ほとんどのユダヤ人たちが、救い主を待ちわびつつ、真の救い主が誕生したことすらも知らない時に、シメオンは救い主と出会う時を待っていたのです。年老いたシメオンは、聖霊の約束が今日適うと知らされると、喜び勇み、神殿に出向いたことでしょう。シメオンが神殿に入ると、相前後して幼子である救い主が両親と共に、宮に入ってきます。
 シメオンはこの時語ります。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます」。喜びの時に、自らの死を語る。これは非常に相反する事です。本来ならば、自らの死の時を悟り、悲しみに耐えない時です。しかし、シメオンは喜びと安らぎがあります。それは救い主に出会うことが一時の感情的な喜びではなく、永遠の生命が与えられる救いの喜びであり、安らぎだからです。
 いやシメオンだけではありません。このシメオンの救い主イエスとの出会いは、イエス・キリストを真の神、救い主と信じる全ての民にとっての救いとなるのです(31-32)。だからこそシメオンの喜びは、主イエス・キリストを救い主と信じる私たちの喜びでもあります。シメオンの安らぎは、私たちの安らぎでもあります。
 今という時、苦しみの中にあり、悲しみの中にある私たちにとって、幼子イエスが安らぎとなるのは、この救い主イエスによって、私たちの救いが成就しているからです。今の一時の苦しみは主によって取り除かれ、永遠の生命の救いに導かれるのです。
 だからこそ、救い主イエス・キリストと出会う者、主イエス・キリストを信じる者は、救いの喜びに満たされ、安らぎを得、主を誉め称える賛美の歌を奏でるのです。

V.十字架による祝福
 一方この喜びは、マリアにとっては茨の道です(34-35)。主イエスは反対者によって十字架に架けられ、母マリアはその様を見届けるからです。しかしこれが祝福の言葉です。それはキリストの十字架により私たちが救われ、罪の償いを成し遂げて下さいました。それは同時に、マリアにとっても救いとなるからです。マリアにとっては、キリストが復活するまで、理解できなかったことです。
 十字架の上に死に葬られたキリストは、三日目に甦り、復活されます。救い主を信じる者は、キリストと同様、死からの復活と永遠の生命が約束されています。だからこそ、シメオンは死に際しても恐れ怯えることなく、喜びと安らぎをもつことが出来たのです。
 私たちのクリスマスの真の喜びは、シメオンが救い主と直接出会ったように、私たちも、聖霊に満たされ、御言葉により、2000年前に生まれ給うた救い主と出会うことにより、私たちが救い主により罪が赦され、永遠の生命を受け入れることにあります。
 多くの人たちがクリスマスをお祝いしましたが、御言葉を通して救い主と出会った私たちは、今改めて救い主によって与えられた救いに感謝しつつ、喜びを表したいものです。


                                              (2007.12.30)





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