【2010年 年の標語・聖句からの説教】  辻 幸宏牧師

「聖徒の交わりに生きる」  エフェソ書4章13~24節



エフェソの信徒への手紙4章13~24節

  13 ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。14 こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、15 むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。16 キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。
  17 そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、18 知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。19 そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。20 しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。21 キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。22 だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、23 心の底から新たにされて、24 神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。




序.
 今日は、年の標語・年の聖句の御言葉から聞きます(参照:1/1新年礼拝説教)。キリストに繋がることにより聖徒の交わりも豊かになることを確認します。

Ⅰ.信仰の成長が求められる
 私たちは、食物が育つために根から水や栄養をとることにより、幹・枝へと十分に提供され、綺麗な花や立派な実をつけることを知っています。教会も同じです(4:16)。教会に集められている私たち一人一人が、一つの花、一つの実りです。そして花が綺麗に咲き、豊かな実りをもたらすことにより、教会も成長するのです。そのために教会に繋がる人は、キリストからの栄養が必要なのです。また花が綺麗に見えるのは、それぞれの花が同じ種類であるか、調和がとれていることが必要です。一つの花が綺麗であっても、他の花が腐っていればみすぼらしいのです。キリストの体を形成する教会も同じです。では私たちにとって必要なキリストからの栄養とは何か?(参照:4:13)。「神の子(キリスト)を信じる信仰において一つとなること」と「神の子を知る知識において一つとなること」です。
 十戒の序文の最初の言葉は「わたしの主、わたしの神」です。他に主、他に神はいないのです。そしてこの唯一の主が、エジプトで奴隷であったイスラエルを救い出して下さったように、既に私たちを罪の奴隷の状態から救い出して下さっているのです。そして私たちを救い出すために、御子イエス・キリストが十字架にお架かりになられたのです。私たちにとって、主なる神さまを信じると語る時、唯一の主を信じること、そして神の御子イエス・キリストの十字架によって私たちの罪が贖われたことが、何よりも重要なことです。この点において、キリストの教会は一致が必要です。
 第二は、「神の子を知る知識において一致」することです。信じれば救われるのですが、私たちを救って下さる主がどのようなお方であるか知らず、盲目的な信仰であってはなりません。主は、私たちが目の見えない状態で、手を携えて、救いに導いて下さっているのではありません。目の見えなかった盲人に対して、主イエスは目を開き、そして自分の目で見えるようにして下さいました。私たちの救い主は言葉を語られる神であり、私たちを救いに必要な知識を御言葉によってお語り下さるのです。だからこそ私たちは神の言葉である聖書の言葉に聞かなければなりません。その中心が主日礼拝の説教であり、家庭礼拝・個人礼拝も然りです。これを繰り返すことで、私たちは神による救いをさらに確かなものにし、信仰の成長が与えられ、皆が神の国における救いという同じ方向を向き、神の子に相応しい歩みを行うことが出来るのです(14)。その結果私たちは神の武具を身に着け、悪の誘惑に対しても、信仰の戦いを行うことが出来るのです(6:10~)。

Ⅱ.古い生活から離れよ!
 悪賢い人間・異邦人の求めることを、キリスト者が避けなければなりません。聖書は具体的に記します(4:17-19)。
 愚かな考え「空しさ」のことです。神によって与えられる神の国というゴールを見据えて人生を設計していかなければ、今の時、自分にしか目が行かず、自己主義に陥り、人生は空しくなるのです。知性は暗くなる。学問さえすれば知識は得られ、知性が明るくなるのか?学問を究め、専門分野に関しては深い知識を持っていても、他の分野のことを理解せず偏りがあれば害をもたらすことさえあります。私たちは主が創造された被造物全体の統治が求められています(創世1:26)。全体設計があってこその専門知識であり、そうすることにより知性は明るくなります。無知は神による救いを知らないことから生じます。そして心のかなくなさは、無知故に神の言葉を聞くことが出来ず、自らの主張を変えることが出来ない石の心であります。その結果、神の命から遠く離れてしまい、救いに入れられることはないのです。言い換えれば、無感覚のため神がお示しになる罪の指摘を受け入れることが出来ず、結果として、放縦な生活、あらゆるふしだらな行いにふけるのです。
 心のかたくなさ、無感覚など、私も耳を覆いたくなることです。しかし私たちは、主の御前に、集められています。そして私たちはキリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んでおります(4:20-21)。つまり、今、主によって教会に集まっている私たちは、異邦人が求めているこれらのことから離れ、主の御言葉に従って生きることが求められるのです。私たちは主によって、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着けさせて下さったのです。私たちの歩みは、滅び行くものではありません。神の国における永遠の生命に至るものです。だからこそ、私たちは徹底的に御言葉から聞き、自らのかたくなな心が打ち砕かれ、主の御声に聞き従わなければなりません。この結果、聖徒の交わりは深まり、教会としての成長が与えられていくのです。

                                              (2010.1.17)


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