【特別伝道集会説教】  辻 幸宏牧師

「充実した人生~希望をもって生きるために~」  ヘブライ11章





序.
 本日は、大垣伝道所の伝道集会にご出席くださり、心から感謝致します。テーマは「充実した人生~希望をもって生きるために~」としました。現在の日本では、以前のような右肩上がりのバラ色の人生を思い描くことは困難になっております。そうした中で、私たちはどうすれば人生が充実し、希望を持って生きることが出来るのか?このことが問われています。このことの答えを探るべく、すべての人が労苦しているかと思います。

Ⅰ.希望ある人生とは何か?
 ①富・権力を得ると希望が持てるのか?
 多くの人は、希望を持って生きるために、富を求めます。確かに生きていく上では、富が必要であり、富の蓄えが出来るようになることにより、心の中に余裕が出て来ることでしょう。
 しかし富を得れば、希望が持てるのか? 地位・権力があれば、希望があるのか?権力闘争という言葉がよく言われますが、上に立つ者は、その権力の故に、争いが絶えません。下に仕える者ひとたちからの信任を得なければ、権力があったとしても孤独に置かれます。戦争などは、多くの人々が希望を失う結果をもたらしますが、上に立つ者が国を守るという名の下、自分を守るため、人に労苦を強いるのです。

 ②彼らは本当に希望はないの?
 別の言い方を致します。今、世界には70億人とも言われる人々がいますが、その内の10億人は極貧と飢餓に苦しんでいると言われています。毎日何万人という子供たちが命を失っています。
 戦争に巻き込まれている多くの人たちもあります。昨今、戦場カメラマンの渡辺陽一さんが脚光を浴びていますが、私たちは彼自身ではなく、彼が伝えようとしている、彼が指し示している写真に写っている現地の子供たちに置かれている現状を見なければなりません。
 あるいは、生まれながらに体に障害をもって生まれる子供たちがあります。死ぬまでの間、障害と共に歩まなければならない人たちもあり、また成人になることなく死んでいく子供たちもあります。
 仕事を首になり、家族もろとも途方に暮れる人たち。
 あるいは、誰でもが通る道でありますが、年を老いていく、そして体が不自由になっていく。寝たきりになる。介護がなければ生きていけない。
 こういった人々にはこれから生きる希望はないのでしょうか?

 ③希望とはなに?  充実するとはなに?
 この世の世界のみを見ていれば、こうした人々には多くの場合、希望はなく、生きる意義すらなくなることもあるでしょう。だからこそ、目に見える希望を失っている人たちは、人の希望とするものを奪ってでも、自らが生きる希望を持とうとするのです。あるいは希望を見失い、自暴自棄になる、自殺する思いが出て来るのです。
 しかし、今、この世にあって生きている人たち、ひとり一人、すべての人は希望に満たされて生きなければなりません。いや、希望をもって生きることが出来るのです。なぜならば、あなたの命は、神さまによって与えられているからです。聖書がしるし、天地万物を創造し、イエス・キリストによる救いをお与え下さる主なる神さまは、天地創造の時から、今の時も、そして世の末、神の国(天国)が来る時まで、すべてを治め、すべての人に命を与えて下さっているのです。その主なる神さまが命をお与え下さっている。それは、生きる希望があるからであり、それは主なる神さまを信じることにおいて、与えられるものであります。


Ⅱ.聖書に学ぶ事
 ①
 さて、日本人にとってキリスト教は欧米の宗教であり、聖書もあまり馴染みがない書物かもしれません。しかし、聖書にこそ主なる神さまが唯一の神さまとしておられること、天地万物を創造し、神さまを信じる人を救ってくださり、天国に導いて下さることを記しているのです。

 ②歴史に学ぶこと
 皆さまの中には歴史に興味のある方もあるかと思います。大河ドラマを見ておられる方もあるかと思いますが、今年は龍馬伝が話題になり、来年は伊吹山の麓、浅井三姉妹が取り上げられます。人はなぜ「歴史」に興味を示し、歴史を学ばなければならないのか? 歴史の勉強は、高校生までに受験のために行うか、興味ある人が行っていれば良いと考えておられる方もあるかと思います。
 確かに知識として、歴史を学ぶのであれば、そのとおりであります。日本の学校教育における歴史は、明治以降の歴史を殆ど学ぶことなく、時代の古い順に学ぶことから、そのような知識を蓄えるための学習になっている感があります。
 しかし、本来、歴史を学ぶということは、過去の出来事をとおして、人々の失敗を学び、同じ失敗を繰り返さないこと、成功したことは、どのように成功したかを確認することにより、それに学ぶことであります。

 ③聖書に学ぶこと
 聖書とは、まさに歴史の書であります。
 創世記の最初「初めに、神は天地を創造された」と書き始め、天地創造の六日目に、創世記1:26~27 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造されたと記されています。その後、生きる者として創造された人間が罪を犯すことにより、人間に死が持ち込まれたのです。
 そして旧約聖書には、神さまがおられること、人が神さまの民であるにも関わらず、人が神さまから離れ、罪を繰り返すこと、それが旧約聖書をとおして繰り返し語られていくのです。そして新約聖書の時代になり、神の子イエス・キリストが来られ、聖書によって語られる主なる神さまを信じる者に罪の赦しと救いをお与え下さるために、イエス・キリストが十字架に架かり、死と復活を遂げてくださることが語られていくのです。

 この聖書の歴史、特に旧約聖書について、多くの人々は神話であると考えるのですが、なぜ聖書が信頼に足りる歴史が記されており、聖書に記されている主なる神さまを信じることが出来るのか?
 聖書には、天地万物の創造に始まって、主イエス・キリストが来られた時代までのその時その時の歴史が記されています。そして、それぞれの時代にあって、過去の出来事が真実であることを証しし、神さまの救いの約束を語ってくださいます。そして繰り返し繰り返し神さまは後の時代に、以前に語ってくださった約束を成し遂げてくださるのです。そして新たな約束をお与え下さいます。つまり聖書に記されている神さまは、御自身が生きて働く主なる神さまであることをその都度示しながら、同時に、救いの約束をお語り下さっているのです。


Ⅲ.信仰とは..
 ①信仰とは  ノアについて
 そして聖書を見て頂きますと、このように記します。11:1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。信仰=希望という言葉に置き換えて読んで頂きたいです。聖書に記されている人たちの信仰、それは神さまが生きて働いておられ、救いに導いて下さることがすでに示されていることから、これから成し遂げられる救い、つまり見えない事実を確認し、信じるのです。
 このヘブライ人への手紙11章には、旧約聖書に記されていた信仰者たちについて記されています。今日は特にノア、アブラハムとモーセについて確認していこうと思っています。11:6~7 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。
 ノアの箱船について、ご存じの方も多いかと思います。ノアは丘の上で、長さ130m程、高さ13m3階建ての船を作ることを神さまから命令され、そしてそれを作ったのです。人々からは笑われ、変人扱いを受けたことでしょう。誰もが神さまの言葉を信じない中、ノアは船を完成させ、家族とすべての動物のつがいと共に、ノアは箱船に乗り、その後、大洪水が起こるのです。

 ②アブラハム
 モーセは、信仰の父と呼ばれ、アブラハムの子イサク、イサクの子ヤコブが12人の男の子を授かり、イスラエルを形成していくのです。
 地図をプログラムにはさみましたので、見て頂きたいのですが、アブラハムはバビロンのウルに住んでいました。彼は家族と共にユーフラテス川を遡り、ハランに行き、さらに主に指し示されるがままにカナン、つまり現在のイスラエル地方へと向かうのです。75歳になり、彼は行動します。
 また、主なる神さまはアブラハムに100歳の時、妻サラが90歳の時に跡継ぎの息子が生まれ、彼から生まれる子孫が祝福を受け、星のように大きな民となることが示され、信じたのです。そして生まれたのがイサクであります。
 さらに主なる神さまはアブラハムに対して、跡継ぎの息子イサクを神への生け贄として献げるために殺すことを求めます。17~19 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。
 まさにアブラハムの生きる希望とは、生きて働く神さまを信じ、神さまによる救いにあること、そして神さまがお語りになる御言葉に聞き従うことにあることを、彼は、自らの行動により、私たちに語っているのです。

 ③モーセ
 では、モーセはどうでしょうか。イスラエルの子として生まれながら、エジプト王ファラオの王女の子として育てられたのです。富と権力をあるがままにすることが出来たのです。24~26 信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。
 人間的に考え、目に見えるものに固着しておれば、王子として富と権威を手に入れている者が、奴隷となり、苦しみの中に入っていくことは考えられないのです。しかしモーセは、目にみえるものにおける希望を持つことが出来なかったのです。喜びが見いだせなかったのです。地上において朽ち果てていくものではなく、救いをお与え下さり、復活の生命と天国における永遠の生命をお与え下さる生きて働く主なる神さまにこそ希望を見いだし、地上にあっては不正に汲みしない苦しみを担ったのです。


Ⅳ.信仰に生きる喜びと希望
 ①殉教にいたる従順
 神さまによる救いと永遠の生命の希望に入れられる時、人は、地上の生涯をお与え下さっている主なる神さまにどこまでも従えるのです。35b~38 他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。
 殉教の死にいたる信仰を全うしていった人々のことが記されています。

 ②私たちに示された約束のメシアと十字架
 そしてヘブライ書は語ります。39 ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。旧約のイスラエルの民は、天地創造が示され、ノアの約束、アブラハムの約束、モーセの約束を確認してきましたが、約束である救い、つまりメシアが来られ、救いを成就することをその目で確認することが出来ませんでした。つまり約束のメシアであるイエス・キリストが来られること、イエス・キリストが私たちの罪を贖うために十字架に架けられること、死に打ち勝ち復活を遂げられたことを、彼らは目にしなかったのです。しかし彼らは信仰により希望に満たされ、地上の生涯を終えていったのです。
 しかし私たちは、神の御言葉である聖書をとおして、メシアである神の御子イエス・キリストが人としてお生まれになったこと、主イエス・キリストが私たちの罪の贖いとしての十字架に架かられたこと、死から復活されたことが既に示されているのです。

 ③神の国の希望に生きる
 それと同時に、旧約の民が主の約束を信じたように、私たちも復活のキリストが再びこの世に来られ、神の国の完成を成し遂げ、主なる神さまを信じる私たちを天国に導いて下さる時が与えられる希望に生きているのです。肉体は、死を遂げ、朽ち果てていきますが、魂は生き続け、復活の主イエス・キリストにより、天国の祝福に満たされるのです。
 私たちにとって最も大きな希望は、私たちの罪を赦し、永遠の生命をお与え下さる神さまを信じる信仰であります。永遠の生命の希望を持って生きる時、私たちの人生は充実したものとなり、喜びに満ちあふれるのではないでしょうか。


                                              (2010.11.14)


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