【クリスマスの説教】  「老人シメオンの喜び」  辻 幸宏牧師



ルカによる福音書2章22〜35節

  22 さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。23 それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。24 また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。
  25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。26 そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。27 シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
  この僕を安らかに去らせてくださいます。
30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
31 これは万民のために整えてくださった救いで、
32 異邦人を照らす啓示の光、
  あなたの民イスラエルの誉れです。」
33 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。35 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」



T.もう少し、クリスマスを楽しもう
 クリスマスが終わり、世ではもう年末年始の慌ただしく思われます。しかし教会暦では、1月6日が公現日といわれ、東方の博士たちがお生まれになった主イエスの所に来て、礼拝した日とされています。そしてこの日までを降誕節とします。ですから教会においてもクリスマスが終われば、年末年始モードに入り、会員総会の準備に入るのは寂しく、出来ればもう少しクリスマスの余韻に浸りたいとの思いがいたします。
 今日与えられた御言葉には、お生まれになった主イエスが、焼き尽くす献げ物を献げるためにエルサレムの神殿に向かわれることが記されています。レビ12:1-5の規定によれば、母の汚れの期間が40日ですので、マリアとヨセフは、その後にエルサレムに向かわれたのです。そして最初の生まれた男の子が主に献げられるために生け贄を献げるのです。普通であれば一才の雄の小羊一匹と山鳩か家鳩が献げられるのですが、山鳩一つがいか、家鳩二羽となっていますので、主イエスの生まれた環境の貧しさをうかがい知ることが出来るのです。主イエスは聖霊によって身籠もったマリアから生まれられ、罪のない状態であられましたが、生まれた直後においても、一つ一つの律法がまっとうされていき、罪を犯すことはなかったのです。こうした小さな出来事をとおしても、主なる神さまの守りがあり、罪のない者が私たちの罪を背負って十字架にお架かりになった姿が示されているのです。

U.救いを見る
 この時エルサレム神殿ではシメオンと女預言者アンナが、救い主が来られる日を待っていました。シメオンは、聖霊のお告げにより「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」と語られていたのです。多くのユダヤ人たちが神さまを信じメシアの到来を待っていると語りながらも、律法をおろそかにしたり、律法主義に陥ったりする中、主の語られる御言葉に聞き従う者に与えられた大いなる祝福です。ウェストミンスター信仰告白第14章「救いに導く信仰について」では次のように語られています。「選びの民が彼らの魂の救いのために信じることが出来るようにされる、信仰という恵みの賜物は、彼らの心の中におけるキリストの霊の御業であり、通常は御言葉の宣教によって生み出される」。
 しかし別の言い方をすれば、シメオンにとってメシアであるイエスさまと出会うことは、世の旅路の終わりに位置します。今日の説教題を「老人シメオンの喜び」としましたが、死を前にした喜びとはどういうものか? 地上の生涯を終えようとしているのに、喜びがあるのか? しかしシメオンは、幼子イエスを見つけ腕に抱き、そして神を讃えて、2:29「主よ、今こそ、あなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」と語ります。この時、シメオンは、主なる神さまの救いを見たのであり、主なる神さまによる救いを確認したのです。ここにシメオンの喜び、平安があるのです。救い主イエス・キリストと出会うことは、救いであり、喜びです。この救いは、目の前に肉体の死を控えている者にとっても与えられるものです。ウェストミンスター信仰告白は語ります。14:2後半「救いに導く信仰の主な行為は、恵みの契約のゆえに、義認と聖化と永遠の命を得るため、ただキリストのみを認め、受け入れ、より頼むことである」。つまり救いとは、死を超えて働く力があるのであり、人の生命が、肉の生涯のみで終わるのではなく、肉の死を超えて永遠の生命があることが示されるのです。だからこそシメオンは、肉の死に際して安らかさ、平安が与えられるのです。
 そしてこの救いは、シメオンのように直接、御子イエス・キリストと出会った者にのみ与えられる喜びではなく、ユダヤ人ばかりか異邦人にも、そして今に生きる私たちにも示されているのです。だからこそ、シメオンは続けて、2:31 「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」と語るのです。主イエス・キリストは2000年前にお生まれになり、30年余の地上の生涯を経て、十字架の死と復活を遂げられ、天に昇って行かれました。ですから、直接イエス・キリストと出会った人は、ごく僅かです。現在に生きる私たちが、今、直接イエス・キリストを見ることは出来ません。しかし私たちは、直接イエス・キリストに出会わなくても、聖霊が働いている時、御言葉によって示された主イエス・キリストに出会うことが出来るのです。御言葉によって主イエス・キリストを信じる時、この私たちもシメオンのように主イエス・キリストの救いに入れられるのです。

V.イエス・キリストによって与えられる救い
 そしてシメオンは、なぜイエス・キリストと出会うことが救いであるのかを、34節以降の言葉によりさらに語ります。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています」。御子が、多くの人を倒し、多くの人を立ち上がらせるとは、まさに主イエス・キリストが救い主であり、審判者であることを語っております。つまり主イエス・キリストは、最後の審判において、ある人を罪に定め、また別の人を救いに導き入れ、立ち上がらせるのです。ウェストミンスター信仰告白では次のように語られています。第33章「最後の裁きについて」。第1節「神は、イエス・キリスト――この方にすべての権能と裁きが御父からゆだねられている――により、義をもって世界を裁く日を定めておられる。その日には、背反した天使たちが裁かれるだけでなく。同じように、地上に生きたことのあるすべての人が、彼らの思いとことばと行いについて申し述べ、善であれ悪であれ、彼らが体をもってなしたことに応じて報いを受けるために、キリストの法廷に立つことになる」。第2節「神がこの日を定められた目的は、選びの民の、永遠の救いによって、自らの憐れみの栄光を表し、また、邪悪で不従順な遺棄の民の裁きによって、自らの義の栄光を表すためである。なぜなら、そのとき義人は、永遠の命に入り、主の御前から来る満ちあふれる喜びと力づけを受けるが、悪人は、神を知らず、イエス・キリストの福音に従わないので、永遠の苦しみに投げ込まれ、主の御前と、主の力の栄光から、永遠に絶たれることによって罰せられるからである」。つまり私たちがイエス・キリストと出会うとは、まさに神の救いに導き入れられることを意味しているのです。
 しかし同時に、シメオンは語ります。「反対を受けるしるしとして定められています」。クリスマスにお生まれになった御子イエス・キリストは、私たちを救うために、人々からの反対を受け、捕らえられ、裁かれ、十字架に架けられるのです。そのことをシメオンは主の霊に導かれて預言します。御子は生まれながらにして、十字架を背負うことが示されていていたのであり、私たちがイエス・キリストに出会うことにより救われるのは、キリストのこの苦しみ、死、復活によって、私たちに命が与えられるからなのです。
 この言葉を受け取った母マリアにとって、「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と語られることは、非常につらいものがあったことでしょう。しかしシメオンが、29節において 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます」と語ったように、マリアも受胎告知を受けた時、1:38「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と答えているのです。信仰とは、主がお語りになる御言葉を受け入れ、信じることです。それは罪の赦し、救い、永遠の生命の約束もありますが、キリストが十字架を担って下さったように困難をも担うことです。そして主は、困難に対してはそれを乗り越える手立てをお与え下さいます。事実、マリアは主イエスの十字架に立ち会いますが、この時、主イエスはマリアに対してその後のことを使徒ヨハネに託します(ヨハネ19:26〜27)。
 主は、御言葉によってイエス・キリストと出会った私たちに救いをお与え下さいます。だからこそ、シメオンやマリアが「お言葉どおり」と答え、主の御言葉に聞き従ったように、私たちも神の救いにある喜びに満たされつつ、「お言葉どおりに」と語り、信仰の故に与えられる困難をも担うものでなければなりません。


                                              (2010.12.26)


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