【新年礼拝説教】  辻 幸宏牧師

「支え合う教会を目指して」  テサロニケ一4章1~8節



テサロニケの信徒への手紙一4章1~12節

4:1 さて、兄弟たち、主イエスに結ばれた者としてわたしたちは更に願い、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びました。そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後も更に続けてください。
4:2 わたしたちが主イエスによってどのように命令したか、あなたがたはよく知っているはずです。
4:3 実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、
4:4 おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、
4:5 神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。
4:6 このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません。わたしたちが以前にも告げ、また厳しく戒めておいたように、主はこれらすべてのことについて罰をお与えになるからです。
4:7 神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。
4:8 ですから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、御自分の聖霊をあなたがたの内に与えてくださる神を拒むことになるのです。

4:9 兄弟愛については、あなたがたに書く必要はありません。あなたがた自身、互いに愛し合うように、神から教えられているからです。
4:10 現にあなたがたは、マケドニア州全土に住むすべての兄弟に、それを実行しています。しかし、兄弟たち、なおいっそう励むように勧めます。
4:11 そして、わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。
4:12 そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう。



Ⅰ.愛の業と慈善事業
 互いに愛し合うこと、別の言い方をすれば兄弟愛です。兄弟愛とは、ギリシャ語でフィラデルフィアと言います。黙示録にアジアの都市名として出て来ますし、アメリカにも同名の都市が有名です。本来の意味は家族間の愛ですが、イスラエルにおいては同胞に対する愛として理解されていました。ですからイスラエルの民は、相手が同胞のイスラエルであるか否かによって対応が異なっていたのです。そのことはサマリア人への譬えにおいて(ルカ10:25~37)、顕著に表されています。しかし新約聖書において兄弟愛を語る時、もちろんキリスト者相互の交わり助け合いもありますが、それ以上に、主イエスがサマリア人の譬えで語られているように、すべての隣人に対する愛として解されてきました。「あなたの隣人とは誰か」との問いかけがあるのであり、同胞だけではないことを、主イエスはお語りくださったのです。
 では、私たちが互いに愛し合い、助け合う行為は、一般に行われている慈善事業やボランティアとどこが違うのか?キリスト者として互いに愛し合うことは、行う側の意志に起源があるのではなく、主なる神さまによる救いという神の愛に起源があるのです。つまり主なる神さまは、私たちを罪の刑罰から救い出すために、イエス・キリストをこの世にお送り下さり、キリストの十字架の贖いの故に、私たちの罪は赦されました。そのことにより私たちは、罪の奴隷から神のしもべとされたのです。罪の奴隷に生きていれば、自分の欲望のままに生きていれば良いわけですが、その行くべき道は滅びです。しかし私たちの命は神に買い取られたのであり、主の愛、主の一方的な恵みによって永遠の生命が与えられたのです。そのため、私たちは主人である主の命令に服従するものとされたのです。
 そしてキリストは、私たちの罪を贖うために十字架にお架かりになられた時、罪人である私たちに対して、一方的に罪の赦しと救いをお与え下さり、見返りを求められることはなさいませんでした。これが神の愛です。同じように、キリスト者が行う愛の業は、見返りを求める活動ではありません。愛の業は、キリストの僕として救いの感謝の表れです。この点で慈善事業との大きな違いがあるのです。もちろん慈善活動を行っている人たちのすべてが見返りを求めているとは言えないかも知れません。しかし多くの場合、名声・名誉・自己満足・感謝されることなどの見返りを求めているのです。

Ⅱ.愛の業の聖書的位置づけ
 主は私たちに律法をお与え下さり、神の民として生きるための指針をお与え下さいました。私たちが律法に従うことは、神の僕となった以上当然のことです。しかし、それは軍隊のように従属するだけのものではありません。キリストの御業により罪が赦されたことの感謝の応答であり、主の聖・義・真実に近づくためにキリストのお示し下さった生活に倣うものとされていくのです。
 そして主がお与え下さった律法は、十戒によってまとめられています。十戒の要約を主イエスは教えてくださっています(マタイ22:37~40)。つまりキリスト者として、第一の掟は、第一戒から第四戒に示されていることであり、私たちを救いに入れて下さった神への愛の表れであり、私たちは神礼拝を行うことにより、主の命令に従うことができるものとされているのです。第二の掟は、第五戒から第十戒に示されていることです。それが主がお与え下さった隣人への愛であり、兄弟愛、互いに愛し合うことです。
 教会ではこうした活動を総称してディアコニアと語ります。これもギリシャ語で「奉仕する、世話をする、執事活動」と言った意味があります。つまり、主が命令される互いに愛し合う奉仕は、主の私たちに行って下さった救いという大きな愛に対する応答です。
 教会では執事という職務があります。牧師は預言者として、御言葉の宣教を担うのです。そして長老は、教会を治める王としての努めです。それに対して、執事の職務は、愛の業を行うのです。だからこそ、ことしの標語として「互いに愛し合う」ことを語る時、特に伝道所委員として選出される方々に関して言えば、執事の職務を意識して頂きたいのであり、伝道所から教会独立へとの歩みを始めようとするならば、信徒の方々から教会を治める長老、そして愛の業に仕える執事が選出されることを意識して頂きたいのです。

Ⅲ.愛の業の実践
 さてディアコニアは、何もゆとりがあるから、あるいはゆとりが出来てから行えば良いものではありません。パウロはテサロニケ教会の信徒を賞賛します(1:6~10)。しかし彼らの現実と言えば、決して満たされている教会として愛の業を行っていたわけではありません。教会の規模が大きかったわけではありません。むしろ、信仰の故にユダヤ人たちからそして異邦人たちから迫害を受けていたのです。試練もあったことでしょう。しかし彼らは、マケドニア州の教会を助け、エルサレム教会を助けていたのです。
 つまり愛の業、強いては対外的な献げ物を行っていくことは、教会独立をしてから余裕をもって行うものではありません。私たちの教会は、今年も岐阜加納教会から援助を頂きます。自給伝道できない弱さを担っています。パウロも主から賜ったものの範囲で、生活をして、活動することを求めています(11~12)。だからこそ、私たちも自給に向けた歩みを忘れてはなりません。しかしもう一方にあって、これだけのものを主がお与え下さったことの感謝をもって、奉仕することが求められているのです。だからこそ、パウロも、テサロニケの教会に対して、良くやっていることを賞賛すると同時に、「もうそれで良い」と語るのではなく、「兄弟たち、なおいっそう励むように勧めます」(10)と語るのです。
 またもう一つの側面を最後に考えたいと思います。最初に申命記15章をお読みしました。負債の免除についてです。愛の業としての援助は、代価を求めません。しかし最初から契約を結び貸借関係にある場合、負債は返済が求められます。主がお立て下さった秩序を保つためにも必要なことです。しかし一方にあって、負債を返済することが出来なくなった者に対して、愛する者として、負債を免除することは、主に仕える者の一つの働きです。主は私たちの罪の死という大きな負債を免除して下さったのであり、また生きるために必要な全てを備えられています。だからこそ、必要を求めている人たちに対して愛の業を行うと同時に、負債に苦しむ者を助けることも、神によって求められていることなのです。

                                              (2011.1.16)


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