【新年礼拝説教】  辻 幸宏牧師

「主の慈しみに生きる」  詩編97編



詩編97編

1 主こそ王。全地よ、喜び躍れ。
  多くの島々よ、喜び祝え。
2 密雲と濃霧が主の周りに立ちこめ
  正しい裁きが王座の基をなす。
3 火は御前を進み
  周りの敵を焼き滅ぼす。
4 稲妻は世界を照らし出し
  地はそれを見て、身もだえし
5 山々は蝋のように溶ける
  主の御前に、全地の主の御前に。
6 天は主の正しさを告げ知らせ
  すべての民はその栄光を仰ぎ見る。
7 すべて、偶像に仕える者
  むなしい神々を誇りとする者は恥を受ける。
  神々はすべて、主に向かってひれ伏す。
8 シオンは聞いて喜び祝い
  ユダのおとめらは喜び躍る
  主よ、あなたの裁きのゆえに。
9 あなたは主、全地に君臨されるいと高き神。
  神々のすべてを超え、あがめられる神。
10 主を愛する人は悪を憎む。
  主の慈しみに生きる人の魂を主は守り
  神に逆らう者の手から助け出してくださる。
11 神に従う人のためには光を
  心のまっすぐな人のためには喜びを
  種蒔いてくださる。
12 神に従う人よ、主にあって喜び祝え。
  聖なる御名に感謝をささげよ。




序.新しい年の標語
 年の標語:「畏れをもって主を仰ぎ見よ! 魂の救いを求めて・・」
 年の聖句:歴代誌上28章9節  参照:ウェストミンスター大教理 問106
 問106  第一戒の「わが顔の前に」という言葉によって、わたしたちは特に何を教えられますか。
 答   第一戒の「わが顔の前に」ないし「わが前に」という言葉はわたしたちに、
(第一に)すべてのことを見ておられる神は、何かほかの神を持つという罪に特に目を留め、これを非常に不快に思われること、
(第二に)従ってそのことが、その罪を思いとどまらせる理由となりうること、
また(第三に)その罪を、神を怒らせる最も恥知らずなものとして、一層重くする論拠となりうること、
(第四に)同様に、わたしたちが神に仕えて行うことは何事であれすべて、神が見ておられるものとして行うように説得する理由となりうること、を教えている。

Ⅰ.天地万物を支配し給う神
 私たちが、生きて働く主なる神さまの御前に生きようとする時、主が天地万物の創造者であることを忘れてはなりません(創世記1:26、2:7)。つまり人は創造主を礼拝し、讃美することにこそ、喜びがあり、生きる目的があるのです。
 しかし人は、創造主の御前で、罪を行い、生きる者から死ぬ者となったのです。誰一人、主の裁きを逃れることはできません。人は、堕落以来、だれも神の戒めを完全には守れず、日ごとに思いと言葉と行ないにおいて破っています(ウェストミンスター小教理82、ローマ1:28-31)。そして、生きて働く主は、私たちのすべてを知っておられ、私たちの罪のすべてをご存じであり、私たちは何一つ隠すことなど出来ません。だからこそ主の裁きは完全であり、主の裁きが行われることにより、主の栄光が指し示されるのです。
 旧約聖書を代表する主の裁きは、次のとおりです。
  ・ノアの洪水(創世記6~9章) ・ソドムの滅亡(19章)
  ・出エジプトにおけるエジプトの裁き(出エジプト)
  ・約束の地に入るイスラエルに対するカナンの国々の裁き
 新約の時代に入り、主は神の民が悔い改めを待っておられ、裁きに対しては忍耐してその時が来るのを待っておられるのです。東日本大震災を初めとする災害をとおして、私たちは主の御力を顧み、自らの罪を悔い改めることが求められています。
 「地はそれを見て、身もだえし」(4)と詩編の作者は語ります。「見る」とは、主の裁きから私たちは誰一人隠れることが出来ず、裁きを受ける者は、日々身を震わせ、恐れを抱いているのです。つまり、主の裁きは必ず明らかになるのです。
 しかし同時に、主は愛と憐れみに富んでおられるお方であり、罪の故に御自身が創造された全地万物を裁くことはなさいません(6)。霊的な正義が、全地に指し示され、主の民は、主の御前に集められ、主の御手による救いに導かれるのです。ノアの洪水におけるノアの家族、ソドムの裁きにおけるロトの家族、出エジプトにおけるイスラエルの例を語ることにおいて十分に理解して頂けるでしょう。
 罪を覆い隠すことの出来ない私たちに対して、主はイスラエルを一方的に救い出して下さり、罪を赦して義と認め、神の子として下さり、そして聖化の歩みを行うために律法をそなえてくださったのです。主による救い、主の道である律法が与えられた私たちは、主の指し示して下さった救いに生きる信仰を持ち、生きて働く主を畏れつつ生きるのです。
 だからこそ私たちは、神の御前に立ち、主を礼拝する民とされているのです(6)。

Ⅱ.神の御力と裁き
 主の裁きはすべての人たちに示されます。そのためある者たちは、表面的な信仰を取りつくろうのです。偶像崇拝者であっても、言葉で「神を信じる」、「罪を悔い改める」と語ることも出来るのです。しかし表面的な信仰告白で、神さまを騙すことは出来ません。旧約のイスラエルは神の民とされ、ほぼすべての者が「主を信じる」と告白していたのです。しかし、バアルなど偶像を拝んでいたのです。主は彼らの罪を明らかにし、裁かれます。ソロモンの時代にはイスラエルは分裂します。北イスラエルはアッシリアによって主によって裁かれ、南ユダはバビロンに捕囚の民として散らされていくのです。最後の審判では、主の義が示され、隠されてきたすべての罪が明らかにされ、主の裁きが行われるのです。
 だからこそ、主の御前に集められ、主による救いが示された私たち神の民は、主の御支配を受け入れると同時に、主の愛によって、救いに導かれていることに心から感謝と喜びをもって、主の御前に集まり、主を礼拝するのです。そこにおいて信仰の告白(小教理問86)と、罪の悔い改め(同問87)が生じるのです。
 神の民は、主の御前に集められ、主を礼拝し、主の御言葉に聞き、神の救いに喜び踊るのです。だからこそ、「主の裁き」が行われるにあたっても、罪を悔い改め、神の福音に生きる者に、赦しと救いがあることによる喜びがあるのです。しかし、主に敵対する偶像崇拝者、真の悔い改めなき者たち、福音に聞こうとしない者に対しては、主の裁きがもたらされるのです。

Ⅲ.善き業に生きるキリスト者
 主による救いに導かれた神の民は、主の御言葉に耳を傾けます。それは御言葉に福音、喜びがあるからです。聖書を読み進むことは困難な業ですが、登場人物を確認しつつ、①避けるべき罪、②神の命令(義務)、③神の約束(救い)、④求めるべき祈り、⑤私たちが従うべき模範(善き業)を確認しながら読んでいくと、理解が深まるのです。
 何が悪か、判断に難しいことがあります。サタンは巧妙です。だからこそ、私たちは御言葉に聞くと同時に、主に委ねて祈り求めるのです。主は神に逆らう者から、必ず私たちを助け出して下さり、主の正義が示されます。そのために祈るのです。
 全地万物を創造し、今もすべてを支配しておられる主が、罪の故に滅び行く世にあって、私たちを救って下さいました。キリストにある救いに感謝しつつ、日々歩みましょう。


                                              (2012.1.1)


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