今日、キリスト者にとり、カルヴァンの遺産の意義は何か?

2007415日~19日、ジュネーブで開催された国際会議のレポー


 

2010年10月18日

訳者まえがき

これは、2007年4月15日~19日、ジュネーブで開催された国際会議のレポート“What is the significance of Calvin’s legacy for Christians today? “を訳出したものです。世界中から集まった50人の学者により、2009年のカルヴァン生誕500年と2017年の宗教改革500年に向けて、現代が捉えるべきカルヴァン像を描き上げ、そこから教会が何を21世紀の社会に問いかけるべきかを方向づけようとしたものです。そのような視点が、最後に「ここに8つの分野が選び出されています。それは、私たちの考えでは、特に今日と関わりのあるもので、カルヴァンの遺産への新鮮な通路を提供することでしょう」で始まる箇所で展開されています。

現段階では、宇佐神の私訳を新座志木教会で有志と共にブラッシュアップしたものに過ぎません。原文は、この訳文とともに、辻先生のHPの同じ箇所に掲載されております。また、誤訳等お気づきの折は(m2usami@yahoo.co.jp)までご一報いただけますとありがたく存じます。

本稿は、できれば2010年の定期大会の折に報告し、辻先生のホームページで差し替えをお願いする予定です。

 以上、宗教改革におけるカルヴァンに関する、正しい評価の形成と共有を祈り求めつつ。

                      訳者

   新座志木教会 宇佐神正明

  

今日、キリスト者にとり、カルヴァンの遺産の意義は何か?

2007415日~19日、ジュネーブで開催された国際会議のレポート

2年後に、1509年生まれのジャン・カルヴァンのお祝いがあります。 ジュネーブさらに全世界で、この記念日のお祝は彼の遺産を熟考し、今日の緊迫した諸問題に対する彼の重要性を見出すよい機会を提供することでしょう。この熟考過程を始めるため、異なる大陸や国々から50人の神学者が、2007415日から19日の間、ジュネーブで会合を持ちました。それは、ジョン・ノックス国際改革派センター、スイス・プロテスタント教会連合、世界改革派教会同盟、およびジュネーブ大学神学部の招きに応えたものでした。次の声明文は彼らの見出した結論です。

カルヴァンとは何者で、彼の遺産は今日にとってどのような意義があるのだろうか? この懸案は、2009年のカルヴァン生誕記念祭が近づくにつれ、特に緊急なものとなっています。 改革派教会にとり、カルヴァンはインスピレーションの絶えざる源であり、それゆえ彼らは深い感謝の念をもって、また彼ら自身の責務と再生の機会としてこの祝典を待ち望んでいます。 彼らはカルヴァンの真正の遺産を他の伝統に立つキリスト者や社会と共有したいのです。同時に、彼らは、カルヴァンのイメージが論争の的となっており、今日、ネガティブな視点から提示されることが多いことにも気づいています。 16世紀の他の改革者とは異なり、彼は決まり文句のえじきとなってきました。彼の名が人前で挙げられると、4つの決まり文句が相も変わらず返って来ます。

- 二重予定という彼の容赦のない考え:すなわち神は、ある人を救いに選び、他の人を地獄に定められた。

- ジュネーブの人々に彼が課した道徳的な厳しさ。

- ミカエル・セルヴェトスの処刑への彼の関与。 

- 近代的なもの、特に近代資本主義の歴史的展開における彼の役割。 或る人々には、彼は近代的なものの父のひとりであり、他の人々には、彼は繁栄志向の気風の基盤を据えたのでした。

こういったカルヴァンの感じ方は広く受け入れられており、多くの人は当然と考えています。しかし、彼らは歴史的現実を割引きし、事実上それを捩じ曲げています。その上、彼らは、この改革者のほんとうの意義に近づく障害となる偏った態度を導きだしています。 協議の到達した結論は、新らたな解釈への努力がなされるべきだということでした。それゆえ、私たちは、神学者や他の学門分野の知識人、並びに神の民全体に、この偉大な宗教改革者の遺産を再検討するよう呼びかけます。今日なお重要な洞察や視点がそこには含まれていると、私たちは確信しています。彼の著作、『綱要』だけではなく、彼の短い論考、説教、注解書等のよりきめの細かな研究は、思いもよらない宝を明らかにすることでしょう。

カルヴァンは宗教改革運動の第二世代に属します。 彼の教えと生活を通して、彼は宗教改革の強化に決定的に貢献しました。 彼の考えの及ぶ範囲と首尾一貫性が、改革派諸教会の設立を可能にしました。それ故、2017年の宗教改革記念祭では、彼の名前が認知されなければなりません。 カルヴァンなしでは、宗教改革は別の経過を辿っていたことでしょう。

広範な固定観念を乗り越える努力は、次の三つの方針に導かれなければならないと考えます:

  - いかなる正当な解釈の出発点もカルヴァンの生涯を根本的に衝き動かしたものでなければなりません。 彼の神学と生活を駆りたてた力は究極のところ何だったのか?  例えば彼の予定論のような特有な局面や問題をはらむ局面は、神、創造、人間の救い、および万物の完成を理解する際の、彼の最初の意図の枠組みの中で見られ、解釈されなければなりません。

- しばしば、カルヴァンは後の数世紀の歴史的展開に対し-積極的であれ消極的であれ-責任があると考えられています。ある人々の目には、彼は近世、特に資本主義への扉を開きました。他の人々の目には、彼はある種のプロテスタント教会を特徴づけている偏狭な聖書的道徳主義に対して責任があります。信頼できるカルヴァン像を手に入れるためには、彼自身の意図と発言に導かれることが必要です。

-カルヴァンは極めて特異な状況のもとで生活していました。彼は敵の攻撃を受け、彼自身のジュネーブ市にあっても争いの只中にありました。 彼は、物情騒然とした時代のただ中で、キリストの福音に関する彼の感覚を擁護しなければなりませんでした。 カルヴァンは神学上の単なる著述家であっただけではなく、彼の個人的性質や意志に反して、その時代の論争に引きずり込まれていました。本質的なことは、カルヴァンを彼の時代の文脈において解釈することなのです。数多くの新しい調査研究が、彼の生涯の個々の場面について、近年なされてきました。このようにして、いっそう穏やかな理解が可能となってきたのです。

カルヴァンは聖人ではありません; したがって彼の理想像を描こうとするどんな試みも必ず失敗します。私たちは、ジュネーブでの対立の際、彼の応答が耳ざわりなものであっただろうと認めます。しかも、セルベトゥスの処刑に際して彼が果たした役割は、たしかに、疑わしさ以上のものでした。彼自身の確信という尺度にすら反して、彼は決定的な瞬間に失敗したのです。神学上の論敵に対する彼の言葉遣いは、彼のある著作を読みづらいものとしています。彼の遺産の重要性を熟慮するとき、彼の教えのある局面はもはや適切ではなく、支持されえないと感じます。しかし、私たちの見解では、カルヴァンは、依然としてキリスト教のメッセージの傑出した証人であり、今日、注意深く傾聴されるのに値するのです。

ここに8つの分野が選び出されています。それは、私たちの考えでは、特に今日と関わりのあるもので、カルヴァンの遺産への新鮮な通路を提供することでしょう:

1. 神の栄光を顕わすことへのカルヴァンの責務。カルヴァンが信じているのは、至高にして万物の恵み深い創造者である神が、私たち人類と親しい関係に入ることを望んでおられるということです。この神は私たちに喜びを与えようと、私たちを知りまた私たちに知られるため、被造物である私たちの生存条件を的確に調整しておられます。荒削りの飼葉桶、荒涼とした十字架、そして制限のある聖書の言葉の中で、神は私たちと出会われ、聖霊のみ力を通して私たちに権利を主張されます。神はこのようにご自身を顕わそうとされたので、神の栄光は、人間存在の光栄の中に映し出されます。カルヴァンは書きます。私たちが生活のすべての領域で福音書のみ業を実行しようとするとき。カルヴァンは書きます。「それでは、どうなのか人は虚しいもののようになり、無に帰せられ、無なのです。けれども、神が彼らをたたえるとき、どうしてなお、彼らが無でありえましょうか? 神の御心がその上に注がれている人々がどうして無でありえましょうか。勇気を出しましょう。 たとい私たちが、私たち自身の心にとっては無価値であろうとも、神のみ心に秘められた私たち自身が一廉のものであることを、私たちは見出だします。恵み深い父なる神よ、悲惨な者の父なる神よ、み心をなにゆえ私たちにとどめられるのでしょう! あなたの心はあなたの宝のあるところにあるのです」(綱要Ⅲ.2.25)と。

2.イエス・キリストを私たちの思考と生活すべての前面に置こうとするカルヴァンの決意。私たちの肉の肉となられたキリストのみ名を崇めるとき、神の栄光と恵みは私たちのただ中で証しされます。「私たちがキリストから、たった1インチだけでも離れるなら、救いは色あせていき… そこではキリストのみ名は聞こえなくなり、万物は生気を失います」(綱要II.16.1) 教会は、神の御霊の力を通して生けるイエス・キリストが臨在しておられることに完全に依拠しています。このようにして、教会は「キリストを愛する人たち」(amateurs du Christ、オリベタン訳聖書への序文)の交わりとなります。 教会は伝統や現にある組織の力により頼むことはできません。 彼の時代の教会に対するカルヴァンの批判はこの堅固な確信に基づいていました。

3.創造と救いにおける聖霊のみ業についてのカルヴァンの強調。 神のみ業は、普遍的ですべてを網羅しています。 カルヴァンにとり、神のみ業とはすべての被造物、人間と人間以外のものに対する神の支配のことです。何ものも神の知恵と父的配慮を超えては存在しません。み霊なる神はいのちを与える力であり、万物を持続されます。 その同じ聖霊が私たちをキリストに結びつけ、私たちが神のみ言葉を理解するよう霊感を与え、信仰において私たちの心を照らし私たちを聖め、教会の交わりへと私たちを集められます。 カルヴァンは、教会について、み言葉と礼典という務めと共に、つねに信徒の共同体として語ります。そこにおいて、聖霊のみ業を通して信仰は生まれ、育てられ、強められます。 キリストの体の構成員として、私たちは、私たちのいのちと全世界の更新への希望の内に生活しています。

4. カルヴァンの聖書との契約。カルヴァンにとって、聖書は教会生活の心臓にあって、一人ひとりの神の民によってつねに読まれ、絶えず学ばれるべきものでした。 聖書は教会の中で教えられるべきであり、その教会を彼は私たちの信仰の「母」また「学校」とたびたび書いています。‘私たちの弱さがその学校を去るのを認めないので、生涯を通じて私たちはその生徒なのです’ (『綱要』、IV.1.4)。カルヴァンの旧新約聖書における統一と内容への注意深い配慮、イエス・キリストについての聖書の証言を中心に位置づけること、彼の時代における歴史的、科学的知識の助けをかりてテキストの意味と取り組む欲求、そして、神の言葉の力を改めてそれぞれの世代に語ることは依然として模範です。キリスト教の教義を解説する際、彼は聖書解釈とは別に始めることはありませんでした。この聖書解釈は、説教、牧会的配慮、および市民活動といった日常活動の文脈の中で、次々と行われていました。

5. 神のみ意が生活領域すべてに実を結ぶようにすべきだとするカルヴァンの決意。カルヴァンにとって重要なことは、神の栄光がほめたたえられ、生活のあらゆるレベルで証しされることであり、被造世界全体が具体的に活き活きと神をたたえることであり、しかも神のみ意の麗しさが私たちの人生の重要な場面でも日常の場面でも模範的な形で示されることでした。 カルヴァンの見解では、聖書に記されている道徳律は、神のみ意に敵対する私たちに罪を宣告すると共に、日々のすべての生活場面で神を賛美する指針として役立つものでした。 神の律法は、信仰深い者に対する神のみ意の型であり、人間に成功のための活動の場を提供し、人を歓び迎え入れ包み込むと同時に人を結び付け人間関係を形成します。律法は私たち創造された人格存在に制限や秩序を与えます。その結果、私たちは、神の良い賜物を歓び、喜びに溢れた感謝をもって応答できるようになります。

6.被造世界を神からの贈物とするカルヴァンの主調。被造世界の繁栄を求める神のみ意は人間社会のつねに変わらない尺度であり、人類がそのあらゆる神秘と深みにおいて創造された世界に関わる変わらない尺度なのです。このヴィジョンの中心的特徴は、人間の平等の根本的な肯定であり、相互間や人間の中にある違いを賛美することなのです。 それは創造世界のすべての局面が互いに深く関係し合っていることに気づかせ、人類が公正な関係を具体的に実現せよとの神の召しであり、そして人間の尊厳を忍耐強く確認し続けることなのです。 このヴィジョンの核心には、「未亡人、孤児、および見知らぬ人々」に対する愛、正義、責任あるケアと心のこもったサービスがあります。彼らは皆、無防備で、住まいを追われ、空腹で、孤独で、沈黙させられ、裏切られ、無力で、病み、心身共に破れた人々であり、また現在進行中のグローバル化と格差が拡大して行く世界の中で苦しんでいるのです。 「神が知られているところでは、人間も大切にされます」(エレミヤ書2216)。私たちがすべての人のうちにキリストを見、彼らの内におられるキリストのご存在によって高められ、判断が下されるようにと、カルヴァンは訴えます。そして、私たちが「神の栄光の舞台」として被造世界の完全無欠さを言葉と行動でたえず宣言し続けるようカルヴァンは訴えます。

7. 教会はこの世の君主や権力に対する教会の関わり方をたえず見分けるよう召されているというカルヴァンの自覚。私たちの現在のグローバルな状況では、これは種々様々な形態の国家や民族、絶えず変動するグローバル市場という現実を含んでいます。このことは被造世界の破綻と人間の苦しみに教会が巻き込まれているとする告白をも含んでいます。同時に、この世に対する神の善意を預言し、具体化しようとする教会の願望をも含んでいるのです。同様に、カルヴァンは、神の栄光が教会の外でも公に讃えられ、具体的に実現され得ることを認め、キリスト教共同体が地上の隣人に謙虚で大胆なヴィジョンをもって関わるよう召されていることを認めています。このことに従事する形や内容は、時やところに応じて変わることを教会は悟っており、神の被造物である人間自体が信仰深く生き抜いてきたもろもろの現実と同様に、多様で豊かな仕方で存在して行くことでしょう。 それにもかかわらず、教会は現状を受け入れ神のみ言葉であるキリストに従順に感謝に溢れて応答し、そのようなものとして、キリストへの建設的な証人でなければならないのです。

8. 教会の一致に対するカルヴァンの責務。キリストの体である教会の一致に対するカルヴァンの激情的なまでに一貫した関わりは、教会が既に細分されている現実のただ中で最後まで貫かれました。分裂のただ中で、彼はただ一つの教会のただ一人の主を認め、繰り返しキリストの体は一つであると強調し、分裂した教会にはなんら正当性がないと強調し、諸教会の内部での分派はスキャンダルだと繰り返し強調しました。私たちの現状は分かたれた教会という状況にあり、教会内部でも分裂の脅威にさらされています。特に、改革派の教会は内部分裂と同時に、教会合同運動への参加を特徴としてきました。 キリスト教共同体の本性についてのカルヴァンの考え、主の晩餐のような論争事案を進んで調停しようとする彼の意欲、教会生活をすべてのレベルで架橋しようとする倦むことをしらない努力は、今日的なチャレンジなのです。 カルヴァンは、諸教会に次々と起こる離脱の原因を理解するよう呼びかけます。そして聖書にしたがって、全教会的な具体的な努力に従事して、目に見える一致に向けて努力するよう求めます。すべては、福音がこの世で信頼され、教会のいのちと使命に誠実であるためでした。

参加者:原文(英語版)によりお確かめください。ここでは省略いたしました。 





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